現場に生きる 現場の胸アツ!ストーリー

海の向こうのトーエネック 異国の地での事業を樹立

国際事業統括部の成り立ち

胸アツ!メンバー

※取材時の所属・役職を記載しています

  • トーエネック 国際事業統括部
    顧問 臼井 明男(OB)

胸アツ!ストーリー

現在の国際事業統括部の前身は1976(昭和51)年に発足した海外事業部である。その名の通り海外で活躍する部署だ。この海外事業部のさらに前身となったのは、当時、内線部内の一部署であったプラント部で、このプラント部の時代に入社して以来、40 年以上にわたって、トーエネックの海外における事業の最前線に立っていたのが、取材時、国際事業統括部で顧問を務めていた臼井明男である。臼井は、大学卒業後の1974(昭和49)年、当時の東海電気工事に入社した。
プラント部に配属された臼井は、入社3 年目の1976 年12 月にイランへ渡り、ペルシャ湾の最奥にあるバンダル・シャプール(現・バンダル・イマム・ホメイニ)という土地で、イラン・ジャパン石油化学(IJPC)の総合石油化学コンプレックス建設の電気工事に従事した。これは、本人にとって初めての海外体験であった。


初めて海外赴任した当時の写真

「それまでにも、技術者の海外派遣は行なわれていましたが、会社として工事を受けた海外事業はこのIJPCの案件が初めてだったと聞いています」(臼井)
臼井は2 年間現地に常駐し、宿舎や食堂及び事務所の設営、作業員(主に韓国人かインド人)の管理指導や、現場の施工管理などの業務に携わった。
「日中は最高気温が45℃にまで達し、クルマのボンネットで目玉焼きができるんじゃないかというほどの暑さでした。昼休みは2 時間とってあるのですが、現場からしょっちゅう『ブレーカーがトリップした(落ちた)』という連絡が入るので、そのたびにバイクを飛ばして電気室まで行き、確認をしてブレーカーを入れるということをしていました。毎日そんな繰り返しで、昼休みにゆっくりできたという記憶はないですね」(臼井)
ところが、1979(昭和54)年1月、イラン革命により国王が国外に脱出し、内閣が瓦解した。その後も、工事を再開しようと3 度ほど現地調査に入ったが、翌1980(昭和55)年9月にイラン・イラク戦争が起こり、トーエネックは完全に撤退することになった。その時、手掛けていた工事は、その後、東欧のある国の会社が引き継いで、プラントを完成させたという。
臼井はその後、1981(昭和56)年末から1982(昭和57)年末にかけて、今度はイラクへ派遣された。現場はイラク北部のサラッハーディーン県の主要都市の一つ、ベイジ。案件は石油精製プラントの建設で、臼井はタンクヤードの電気工事の施工管理を担当した。当時はイラン・イラク戦争の真っ最中であり、タンクヤードにも銃撃で穴だらけのタンクが3基ばかりあるのを目の当たりにした。
「日本にいれば銃撃なんてテレビや映画の話ですが、ここではそれが日常でした。日本がいかに平和であるか実感しましたね」と臼井は振り返る。
それからしばらく間が空いて、1985(昭和60)年にマレーシアのペナン州バターワースへ。以後、ほぼ隔年ペースで海外赴任となる。1987(昭和62)年にはサウジアラビア。基地建設工事の設計でドイツへ。1989(平成元)年には再びマレーシア。それから、中国、フィリピン、台湾―この頃になると、臼井はその豊富な経験を買われ、さまざまな国の現場をフォローするために、転々と赴任することが多くなっていた。
トーエネックでは現在、60 歳が定年だが、希望者は雇用延長できる。臼井もその一人で2015 年には65 歳を迎えたが、その後も顧問として続け、2018 年からは上海に赴任した。トーエネックを退職するまで、海外の第一線で活躍し続けた。
臼井らの切り開いた道は、数多くの後輩たちによって強固なものとなり、トーエネック国際事業統括部の未来へと続いている。